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〜おじいちゃんとの約束〜『オミノ安弘物語』

大人になったら、人のために役立つ人になれ

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祖父 小美濃文太郎

「やっしろ、また蔵の中だ!」

江戸なまりで祖父が私の名を呼びます。

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幼い頃

幼い私はイタズラをする度に怒られ、
蔵に閉じ込められていました。
何をそんなに怒られていたのか、
今となっては思い出すこともできません。

小美濃文太郎―私の祖父の名前です。

私の先輩方から聞く祖父の話は、実業家、また政治家として
大変素晴らしい人だったということです。
でも、私は祖父のそうした活躍は見ていません。
物心ついた頃には、もうすでに政治家を引退していましたし、
事業も伯父が引き継いでいました。

祖父との思い出はそう多くはありませんが、
悪いことをした時、とても厳しく叱られたことと、
常に「大人になったら人のために役立つ人になれ」
と言われ続けてきたことです。

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修学旅行にて

高校2年の時、祖父が他界しました。

「人のために役立つ人になれ」
と言われ続けてきた自分は、
そのころから「どうしたら人の役にたてるのか」
ということを考えはじめるようになりました。
しかし、なかなか簡単に
答えがでることではありません。

そうこうしているうちに高校3年になってしまい、
大学進学が迫ってきました。

幼い頃から絵を書くのが好きで、
紙と鉛筆があるといつも何か描いていました。
そのうち漫画などを描いて人に見せることが楽しくなり、
「無からものを作り出して人に喜んでもらう」ことに感激を覚えました。

どうしたら人の役に立てるのか

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大学生の頃

「いっそ人のために役立つ建物をつくるか」
という当時は短絡的な思考で、
東京電機大学建築学科に入学しました。

学生時代、学校やアルバイト先で、
地方から出てきて慎ましく学んでいる友人や、
生活を切り詰めて自分の道を探求している
友人たちと接しているうち、
「親元で何不自由なく、
ぬくぬく大学に通っている自分」が
いかに自立できていないかを思い知らされました。

自分を恥じる気持はエネルギーとなり
「もっと自分も頑張らねば」との思いが強く湧きできました。

大学3年の冬、
家業のガソリンスタンドの経営が思わしくなく、実家をアパートに建て替え、
私たち家族はスタンドに併設された家に引っ越すことになりました。

引越し前の数日間、解体の関係でいままで使用していた暖房設備が使用不可になり、
小さな電気ストーブを足元において設計の課題を徹夜で仕上げていました。

しかし木造の古い家屋です。どうにも寒くてたまりません。
身体は重ね着で何とかなりましたが、足の寒さは耐え難いものでした。

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学生時代の課題作品

朝方四時ごろになると寒さのピークを迎え、
ペンを持つ手の動きも大変鈍くなってきます。

「冬はあったかくて、
夏は涼しい快適な家を造りたい」
心の底から実感しました。

大学四年のゼミは
「熱環境工学研究室」に入りました。
そこで建物は格好の良さと共に「快適」でなければならない、
というポリシーが芽生えました。

「快適な家を造りたい」という夢を実現させるため、
積水ハウス(株)に入社しました。

社会人になるなら自立しなくてはとの思いから、内定式の日、
人事課長に「赴任先は家から通えない所にしてください」とお願いし、
埼玉県大宮市の営業所に配属され、浦和市の独身寮に入りました。

人をないがしろにしてはいけない

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積水ハウスに勤めていた頃

積水ハウスでは、設計と現場監督をさせて頂き、
いろいろな人との出会いがありました。

昔かたぎの大工さんには
新人の時によく泣かされましたが、
時間と共に理解して頂き、
困った時には本当によく助けてくれました。

また、建築現場には不幸にも
前科をもってしまった人も何人かいましたが、
付き合ってみると皆優しくて良い人ばかりでした。

「人は見かけで判断してはいけない」
「人をないがしろにしてはいけない」
ということを実感しました。

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積水ハウス時代に設計した住宅

家はほとんどの人にとって
「一生に一度の買い物」です。

設計をしながら
「この部屋で○○さんはどのように寛ぐのだろう」
とお客様やご家族一人一人の顔を
思い浮かべながら、
「その人にとって一番快適な家」
を造る仕事に喜びを感じていました。

また、自分も結婚し、子どもが生まれたことによって、
さらに生活感のある家が造れたように思います。

家を引渡した後も多くのお客様と
退社間際まで本当によいお付き合いをさせて頂きました。

家造りは人の人生に関わる大事な仕事であるとともに
大きな責任感が生まれてきます。
よりお客様に満足していただくために、自らも精進し、
一級建築士、宅地建物取り扱い主任者などの資格もとりました。

そして「快適な家をつくる」ことは「人の役にたっている」
という自負をもって仕事に取り組んでいました。

私にやらせてください

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市議会選に出馬

仕事も順調に進んでいたある日、
久々に実家に帰っているところへ
祖父の後継として市議会議員をしていた伯父が
訪ねてきました。

用件は「自分は市議を辞めるので父に出ないか」
というものでした。
父にその気は全く無く
しばらく沈黙が続いていました。

そんな時、
「人のために役立つ人になれ」
という祖父の言葉が頭に浮かびました。

「家を造る」ことは大切な仕事であり、
「人の役にたっている」との思いもありましたが、
「本当にそれだけで良いのか」との思いと共に
「個人事業者に対する社会保障のありかた」などなど
仕事を通じて感じていた様々な社会の矛盾を思い出しました。

そして「もっと人のために役立つ仕事をするには
自分が政治家になるべきではないか」と決意し、
「私にやらせてください」と手をあげました。

家族には当初反対されましたが、なんとか納得してもらい、
市議会に出馬する準備を進めていました。

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震災直後の神戸へボランティア

ところが、頼りにしていた市議の伯父が
突然脳梗塞で倒れ入院してしまい、
政治の事など何一つわからなかった私は
途方にくれてしまいました。

そんな時、井口秀男都議会議員が
「私のところへ勉強しにきなさい」
と声をかけてくださいました。

それから毎月毎月井口先生のところへ通い
政治の「イロハ」を教えて頂いたり、
街頭演説に同行させて頂き、演説の仕方を勉強させて頂きました。

そして平成7年4月武蔵野市議会議員選挙にて
初当選をさせて頂きました。

市議会での活動は大変でしたがやりがいのある仕事でした。
常に市民の方と接していましたし、
本会議のたび一般質問や代表質問で登壇しました。

市議会在籍6年で24回一度も休まず登壇したのは
私の自慢の一つです。

後先考えずにやれ

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たくさんの人に支えられて

市民相談の中には
武蔵野市だけでは解決できないことも
たくさんあります。

特に二期目になると、重大な相談もあり、
警察、消防署、保健所など東京都の許認可が
必要な場面が多くなってきました。

そうした時は、
市でできるところまでは自分で仕事をし、
後は井口都議にお任せをしていましたが、
最初から最後まで仕事を完結できないもどかしさはいつも感じていました。

市議会も二期目の中盤に差し掛かった頃、
恩師である井口秀男都議会議員が今期限りで都議会を勇退することになりました。

次の改選まで約8ヶ月の時間しかないのに加え、
当時の森政権の支持率が一ケタ台ということもあり、
候補者選定は困難を極めていました。

私も候補者選定に忙しい日々を送っていましたが
全く決まらず、時はどんどん経過していき、
とうとう年を越して選挙まであと四ヶ月というところまできました。

そこで私たちは「公募」という初めての試みに挑戦しました。

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妻と二人三脚で

都議候補に応募してきたのは4人でしたが
書類選考で1名のみが残りました。

その方は一般市民のかたでしたが、
公募に市議会からも出すべきだとの声が強まり、
紆余曲折の後、
私は石井一徳議員に呼び出されました。

「勝負させてやるから後先考えずにやれ」
とすごい迫力で「公募に出ろ」と言われました。

当時の状況を考えると、公募を通ったとしても、
このまま森政権が続けば間違いなく落選でした。
しかし、かねてから市と都の連携の重要さと共に、
都議会議員であれば最初から最後まで責任もって市民要望が実現できる。

このことこそ更に「人に役立つ」ことにつながるであろう、
と考え公募に出ることを決意しました。

最終的に公募者は二人、選考会は公開され、メディアも入った中で行われました。
選考結果、私が僅差で選出され、次回都議選に出馬することが、
正式に決定しました。

もう少し、耳を傾けていれば…

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都議会にて

それから3ヶ月間、
寝る間も惜しんで活動を進めて参りました。

途中、森政権から小泉政権に変わったこともあり、
追い風のなか、多くの市民と市長、市議会議員
などの応援を得て、平成13年都議会議員選挙に
初当選いたしました。

都議会では新しい制度やしくみをつくる仕事も
させて頂きました。

「違法捨て看板撤去のガイドライン」「副校長制度」「特別支援教育」
などなど、現場を歩きながら問題点を把握し、一つ一つ形にしていきました。

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噴火直後の三宅島へ

また、市民相談も積極的に取り組み、
念願でありました、
最初から最後まで責任をもって
要望実現に取り組むことができました。

都議会では一番の晴れ舞台である予算委員にも
一期生では珍しく任期中2回も選出されました。

自分自身まさに絶好調という感じでしたが、
「都議会議員になってから、ぜんぜん地元にいないじゃない」
という声もちらほら聞こえて参りました。

このとき、もう少し市民の声に耳を傾けていれば・・・
との思いもむなしく、2期目の選挙では1500票差で惜敗してしまいました。

ここで逃げたら、一生立ち直れない

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一市民として

落選後は、一ヶ月くらい呆然としており、
食欲も全くありませんでした。

しかし落ち込んでもいられず、
落選した次の日からお世話になった人たちへの
あいさつ回りが始まりました。

当選していたら
皆さんに喜んで迎えてもらうところですが、
玄関先で泣かれたこともあり、本当につらい毎日でした。

一時は「もう人に会いたくない」
「どうして自分が落ちなければならないんだ」
「自分は市民に見捨てられたのだ」
と自暴自棄にもなり、精神的にも人間不信のような感じになっていました。

落選数日後、現職時に予定されていた50人ほどの会合がありました。

「一人の人にも会いたくないのに、50人なんて無理だ」
私は欠席してしまいたい衝動にかられましたが、ふっと考え、
「ここで逃げたら、一生立ち直れないかもしれない。つらくとも顔だけ出そう」
と会場に向かいました。

会場に着く間の足の重さはいまでも鮮明に覚えています。

会場に入ると、
すでに懇親会がはじまっていました。

私を見るなり「小美濃さんが来た。」
「よく頑張ったね」
「来ないかと思ったけどありがとう」
「次は頑張ろう」
とたくさんの激励の言葉に心から救われました。

「自分にはこんなに素晴らしい仲間がいるじゃないか」
といままでの精神的苦痛が少しずつ和らいでいくのを感じました。

そんなある日、お世話になっていた市民のかたから電話を頂きました。
「今後はどうするの。一度話をしないか」とのお誘いでした。

その方に話をしているうちに
「もう一度挑戦するならぜひ応援したい。
まず絶対必要なのは活動資金だろうから、それを集める組織をつくろう」
とのご提案を頂き、
その方のリーダーシップで私の政治活動を支える資金団体が発足しました。

もう一度、地域活動から

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わんぱく相撲にて

私もこうしたご支援にお応えするべく、
何が原因で落選したのかということを
じっくり自分なりに総括し、
「もう一度、地域活動からしっかり取り組もう」
という決意をしました。

現職時ではできなかった
青少協の委員長をさせて頂き、
青少年健全育成にじっくり取り組みました。

他地域との交流もさせて頂き、市内でも地域によって
青少年活動の取り組み方が千差万別であることが理解でき
本当に勉強になりました。

また、消防団にも入れて頂き、火災現場の現状をはじめ
市民の安全・安心を守ることの重要性を知識だけでなく体でも実感しました。

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地元のお祭りで

そんな折、地元の私立高校の移転に伴い、
跡地に高層マンションが
建設されることになりました。

私たちの住む町は
低層住宅が建ち並ぶ閑静な住宅街です。
学校だからと一定の高さは許容していましたが、
マンションとなると話が違います。

私たちは、住民で地区計画を策定し、
自分たちの街は自分たちで守る活動を始めました。

会合は毎晩のように行われ、気がつけば百回をはるかに超していました。

私も一市民として参加させていただきましたが、
住民の持つ力と英知には本当に感激いたしました。

住民の努力により地区計画案は完成しましたが、
市に提案するには土地に権利を有するものの3分の2の賛同が必要でした。

お客さんでなく仲間として

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地域の仲間と

ここでも住民パワーは炸裂します。

権利としては、所有権、賃借権、抵当権など
多数ありました。

当然権利だけで
そこに住んでいない人も多くいましたが、
初めて住民運動に参加した人たちが
一軒一軒権利者を訪ね歩き、
あれよあれよと4/5以上の賛同が集まり武蔵野市長に提案することができました。

結果として、
武蔵野市長には私たちの地区計画は認められませんでしたが、
住民の力を行政に知らしめたことは、一人ひとりの自信となり、
現在でも新築工事に対してマンション事業者と堂々と折衝を続けています。

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井の頭池をきれいに

私はこの運動に参加し、
武蔵野市民としての誇りを実感しました。

それと同時に、
自分が政治家としてこの運動に参加していたら、
同じ実感を得られたかと自問自答したとき、
なかなか難しいと感じました。

いままで現職時には、
市民相談にしても「やってあげている」感が無意識のうちにあったように思います。

そうすると、議員はあくまで「仲間」ではなく「お客さん」の域を脱することができません。

問題の本質は上からの視線では見えづらいということが、
落選後さまざまな地域活動を通じて理解できました。


ともに運動する仲間がいる限り

過去の活動の中で、
見たり聞いたりしただけの知識や、
自分の周りにあるさまざまな利害関係で
問題の本質を矮小化し、適当な落としどころを
見つけていたことがあったのではないか、
と自分自身猛省しました。

問題の本質を見極め、
本当に市民の視線で活動し
問題解決をしていくには、
自分でその輪の中に飛び込み、自分の目や耳で確かめ、
自分の信念のみを信じて取り組まなければ決して本当の成果は出てきません。

外野に何を言われようと、
ともに運動する「仲間」がいる限り、
自らの正義感と信念を
貫き通すことができることを実感しました。

これらの経験は
落選したからこそできたことだと思います。

あるとき支持者の方に言われたことがあります。

「あなたは現職のときはお鼻が上を向いていた。
注意しようにも、聞く耳を持っていなかったし、言う気にもならなかった。
でも最近のあなたは変わった。これからは気がついたことは言うからね」と。

恩返しは人の役に立つこと

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人の役に立つことが恩返し

振り返ってみると、現職時は
武蔵野で一人という立場を意識しすぎてか、
ずいぶん肩肘を張っていたなと思います。

今は誰とでも自然体で接することが
できるようになりました。

議員が「お客さん」の立場だと、
どうしても市民は、
「こんなこと聞いたり言ったりしても大丈夫だろうか」と萎縮してしまうことがあります。

しかし、仲間ならば言いたいことをどんどんいえます。
こうした本音の会話の中にこそ「問題の本質」があることが多いように思います。

いつでも、一市民として、また、仲間として胸襟を開いて話ができる。

しかし、いったん議会に戻れば、市民代表の議員として、
自らの信念と正義を貫き、市民から聞いた本質の問題点を徹底的に追求し解決していく。
こういうスイッチを持っている議員が
「本当に人の役に立つ人」であると今では確信しています。

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オミノは今日も走ります!

落選してもこんな自分に期待し、
物心からなる支援を続けて頂いている多くの人に、
心からの感謝の気持ちでいっぱいです。

恩返しはぜひとも
社会に貢献する事でさせて頂きたいと思います。

そして、
落選して得たこの貴重な経験をぜひ生かし、
今度こそ本当に「人の役に立つ人」になりたい、
これが私の切実なる思いです。


「やっしろ、がんばれよ」

祖父の声が聞こえてくるようです。
きっと空の上から、見守ってくれていることでしょう。

今度こそ、祖父との約束を果たすことができそうです。

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